文京の街角

今は見れなくなってしまった文京区の街角や風景を記録するブログです。

続・百尺山を探す

 1年前に百尺山の位置を特定しようとした記事を書きました。
あれから、古い航空写真や東京教育大学に関する文献を用いて
再度、百尺山の位置などを見直してみました。

【数字】の記述がありますが、これはどの参考文献なのかを識別するためのものです。

(以前、百尺山について書いた記事は下記を参照してください)

wagamachibunkyo.hatenablog.com

 

 

百尺山の位置を再度考える

 以前、百尺山について書いた記事では古い地図で見たある地点から百尺山の距離を

現代の地図に照らし合わせることで、百尺山の位置を特定しようとしました。
今回は、前回と比べてより百尺山の位置を絞り込むために
3地点から百尺山の距離を求めることにしました(図1)。

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図1 各3点から百尺山の中心辺りまでの距離(東京都区分詳細図 昭和37年を一部改変)【1】

図1より、3点から導き出される百尺山の位置をGoogleマップに当てはめたものが

図の2になります。Googleマップで見てもわかりますが、この位置を地上から見てみると庭のようになっており、山や丘のようにはなっていませんでした(図3)。

今回求めた百尺山の場所と前回の記事で紹介した百尺山の名残と考えられる

小高い丘&石垣少ししか離れていないことを考えると、百尺山は筑波大学

東京キャンパスまたはその前の東京教育大学時代に無くなっていしまった

可能性があります。そこで古い航空写真を使って今回求めた位置を見てみました。

 

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図2 図1より考えられる百尺山の位置(Googleマップより一部改変)
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図3 左:地上から見た図2の赤丸の位置、右:左の写真を拡大したもの

百尺山の位置を古い航空写真で見る

 国土地理院のGSI Mapsでは過去の航空写真を見ることができます。

この機能を使って先ほどの百尺山のあると思われる位置(以下A地点と省略)の

変容を見てみました。

 まず、1945~1950年の航空写真を見てみるとA地点は空襲の被害を受けた周りと

比較して黒く木々が密集した丘のように見えます(図4の赤丸)。

(東京文理大学の校舎は西館を残して空襲により焼失してしまった【2】。

航空写真で現在スポーツセンターが建つ場所にあるロの字のような建物が西館です。)

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図4 1945~1950年の東京文理大学付近(現在の教育の森公園)の航空写真

赤丸で囲った場所がA地点

(国土地理院 GSI Mapsより一部改変)

 1961年~1969年の航空写真を見てみるとA地点の西側に建物(合併教室【2】)が

確認されるものの、木々があるように見えます(図5の赤丸)。

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図5 1961~1969年の東京教育大学付近(現在の教育の森公園)の航空写真

赤丸で囲った場所がA地点(国土地理院 GSI Mapsより一部改変)

 1974年~1978年の航空写真でA地点は影となってしまい、どうなっているか

確認することができません。加えてA地点の東側に細長い建物(G館【2】)が建ち、

北側に水色の人工物が確認されます(図6)。

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図6 1974~1978年の東京教育大学付近(現在の教育の森公園)の航空写真

赤丸で囲った場所がA地点 (国土地理院 GSI Mapsより一部改変)

 1979~1983年の航空写真ではG館の東側の外壁が写っていることから

航空写真の撮影角度上、A地点はG館にほとんど隠れてしまっており、

どうなっているか確認できません(図7)。

合併教室の建物が無くなったことから周辺の木々が無くなっているように見え、

以降の航空写真でもA地点の南西側は木が無くなって庭のようになっていることが

確認されます。 

(1978年に東京教育大学は閉学になったためか、小さい建物は無くなっている)

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図7 1979~1983年の東京教育大学付近(現在の教育の森公園)の航空写真

赤丸で囲った場所がA地点 (国土地理院 GSI Mapsより一部改変)

 

これ以降の航空写真で、筑波大学東京キャンパスが建つまでA地点で大きな変化が

確認されませんでした。

(G館と南に隣接するロの字型の建物(E館【2】)と呼ばれ、東京教育大学閉学後も

今の筑波大学東京キャンパスができるまで残っていた)

 

結局、百尺山とは何なのか?

 まず、百尺山については占春園内の小丘であるという記述【3】があることから

百尺山は占春園内に存在していたという事がわかります。

また、百尺山と書かれてはいませんが、東京文理大学の構内校舎配置図において

東館(東京教育大のE館の位置にあったロの字型の建物。空襲により焼失)【2】の

北側に小山のようなものが書かれています。

 百尺山の位置については、湯立坂から見ると窪町東公園は高い位置にあるため、

窪町東公園の一部が百尺山という意見もあると思います。

確かに、区内で久世山と呼ばれていた場所(現在の小日向2丁目、鼠坂近く)は

江戸時代に屋敷があった事、高い位置にあるという点が類似しているので

窪町東公園の一部が百尺山という見方もできなくはありません。

しかし、初めに書いたように百尺山は占春園内の小丘という記述【3】が

あるため窪町東公園の一部ではないことになります。

 百尺山の詳細な位置については今回、求めた位置だろうと考えられます。

現在、百尺山はどうなっているのかというと百尺山は無くなってしまい

その一部が残っていると考えられます。

過去の航空写真を追ってみるとG館が立てられた以降からA地点付近の

木々が無くなっているように見えます。そのため、G館を作る際の作業場の

観点などで無くなってしまった可能性が高いと考えられます。

その理由としては求めた位置を図4の航空写真で見てみると丘のように

なっていることがあげられます。

 現在、百尺山は無くなってしまい、その一部が残っていると考えられます。

古い航空写真を追っていくとG館ができた後からA地点周辺は木々が

無くなり庭のようになって見えます。そのため、G館を立てる際に作業場などの

理由で百尺山は無くなってしまったと考えられます。

そして、残った百尺山の一部は前の記事で書いた石垣のようなもので覆われた

土の山のような物(図8)であると考えられます。

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図8 左:百尺山の痕跡と考えられる土の山、

右:左の写真の土の山を窪町東公園側から見たもの

 

参考文献

【1】東京区分図 文京区詳細図, 昭和37年 , 日地出版

【2】写真集 東京教育大学百年, 昭和55年, 財界評論社・教育調査会, 初版

【3】東京高等師範学校附属小学校における地理・歴史授業の実際,

         1987, 愛知教育大学教科教育センター研究報告 第11号 P241~250