最初に長ったらしい経緯を書くと、少し前に占春園内あったという百尺山の位置を
特定するために、東京教育大学百年という写真集(以下、写真集)を入手しました。
写真集を見ていると、某地域コミュニティサイトに掲載されていた
占春園橋(教育の森から占春園に入ってすぐの辺りにあった橋)跡の周辺の
コンクリート製構造物の写真(著作権の関係で自分で撮影したものを図1の左図に示す)と写真集の占春園橋の写真に写っていた校舎の柵の形(図1の右図の赤線で囲った部分)が
似ている事に気が付きました。
図1の左図にあるコンクリート製の構造物は場所からして図1の右図の柵の
一部であることは間違いなさそうです。
また、図1の右図を見ると柵の後ろに建物があることから、この柵は後ろにある
建物の一部であると考えられます。
写真集で図1の右図が掲載されていたのは東京文理科大学の部分であり、
昭和6年(1931年)の構内校舎配置図【1】によると柵の後ろに建っている建物は
西館になります(図2)。
この東京文理科大学の西館は戦時中の空襲で残った数少ない東京文理科大学の
建物であり、東京文理科大学が東京教育大学(現在の筑波大学)になってからも
W館という名前(注1)で使い続けられた歴史があります(図3)【1】。
このコンクリート製の構造物は少なくとも94年前には存在していることになります。
占春園及びその周辺にある東京教育大学の痕跡は幾つか発見されていますが、
古い校舎が使われている筑波大学付属小学校の敷地内には、まだ発見されていない
or関係者しか知らない痕跡がまだあるのかもしれません。
(個人的には正規ルートで痕跡が無いか調べたり、解っているものを見たりしたいの
ですが、こんな事で敷地内に入れる許可は下りないと思います)
注1:W館のWは英語で西を意味するWestから来ていると思われる。
その根拠として、東京文理科大学時代には西館と東館があり、東館の跡地には
E館(今の筑波大&放送大学の校舎ができる前に建っていた建物)と呼ばれており、
英語で東はEastであるためである。
参考文献
【1】写真集 東京教育大学百年, 昭和55年, 財界評論社・教育調査会, 初版